長崎帆船祭りと龍馬伝の旅(クルージング)

 昨年行くことができなかった長崎帆船祭りと龍馬伝の旅に出かけることにした。24日の朝7時に田川君に我が家まで迎えに来てもらった。同乗して来た若者がいた。アレン隼人君である。彼は田川君の姉君の息子だそうだ。そして彼はカリフォルニア在住で、長崎のおばあちゃん家に来ていてクルージングに同行することを望んで熊本に来たのである。それから新しくヨット仲間になったN氏を迎えに行った。そして、天草へ向かった。
 途中ヒライでお弁当と飲み物を購入して桟橋に向かった。今日はRKKカップヨットレースの前夜祭があるので、駐車場はいっぱいではなかろうかと思っていたが、まであまり来ていないようだ。荷物と水を積み込むとエンジンをスタートさせて早速離岸した。
 長崎出島ハーバーに24・25日の係留予約を入れたが、長崎も25日にヨットレースがあり、そのため24日は満杯でとれなかった。そこで、茂木港に向かうことにした。風はない。機走で行くことにした。無風ではあるが、機走なので見かけの風はあり、カンカン照りではなかったので、恐れていたほど熱くはなかった。

 今日は14時ぐらいが干潮である。引き潮のうちに口之津と早崎の瀬戸を通過しなければならない。Laputaのエンジンは12馬力で、時速10kmが巡航速度である。回転をそれ以上あげても速度はさほど上がらないからである。口の津興を通過するときには、連れ潮なので持続15km(対地速度)を記録した。これはLaputaにとってはこれまでの中で最高速度である。口之津の岬をかわすと今日の目的地茂木をめざすことになった。風が少し吹いてきたので、セイルをあげて、機帆走となった。茂木港に入ると2つの桟橋が見えてきた。その一つに仮留めをして、近くにいた人に「ここにとめてよいか。」と尋ねると、一軒の家を指さして、「あの家が組合長さんの家なので、そこに尋ねなさい。」と答えられた。そこで田川君がその家に行って、帰ってきた。そして、「もう一つ奥の桟橋にとめるように言われた。」そこで、その桟橋に移動し、本格的に係留して艇のなかをある程度整理して、田川君とアレン隼人君は長崎の実家に言った。
 N氏は、近くを散歩してくると言って、出かけた。これはスーパーやコンビニ、居酒屋、銭湯の位置を確かめに行ったのである。帰って来たN氏と船上でビールなどを飲んで、陽が傾いてきたので、銭湯に行った。銭湯というのは今時珍しい。私の母の実家は銭湯を営んでいたが、かなりよそより遅くまで頑張って続けていたがもう廃業している。ここの銭湯のお湯はかなり温度が高い。江戸の流れをくんでいるのだろうか。落語などで知る江戸の銭湯のお湯の温度は高くて、「(浴槽の)中ではうごくんじゃねえ。お湯が食いついて来るじゃねえか。」というせりふがある。N氏は、太陽に照らされ、皮膚が赤くなっていて、とうとう湯船につかることができなかった。
 船に帰る途中にあった居酒屋によってビール、刺身、焼き鳥などで夕食をとった。船に帰って、ランタンに明かりを入れ、コックピットでビールを一杯、キャビンで焼酎を一杯、そこまでは記憶にある。朝起きるもういっぱいビールを飲んだ。今日は犬の小太郎の散歩も、車の運転もしなくてよいからである。でも食欲はない。軽く何かを食べて、長崎に行くことにした。バス停に行くと長崎行きのバスがすぐに来た。バスは峠を越えればすぐに長崎市街である。バスの運転手さんに、「長崎帆船祭りに行くが、どこのバス停でおりたらよいか。」と尋ねるとバス停を教えてくれた。バスを降りて、近くにいた人に、「長崎帆船祭りに行くには、どの路面電車に乗ればよいか。」と尋ねると、「電車に乗ってもよいが、近くなので歩いていった方がよい。」ということなので、その方角を教えてもらい、歩いていくことにした。中華街を抜けていくと、帆船のマストが見えてきた。その方向に歩いていくと、日本丸海王丸が見えてきた。どちらもこれまで見たことがあったが、日本丸に乗船して見学した。




 また、韓国から来た大型のスクーナー(縦帆船)がいた。また、ジャンク(中国帆船)があった。だんだん太陽の照りつけが強くなり、二日酔いと相まって吐き気を催して来た。出島ヨットハーバーの前のテラスで休むことにした。どうも熱中症のようなのでポカリスウェットのペットボトル買ってきてもらって飲んだ。どうも足らないようなので、自分で買いに行き、結局4本も飲んでしまった。田川君から電話が有り、彼らも帆船祭りに来ているとのことで、ここで落ち合うことにした。出島ヨットハーバーの事務所の人が帰ってきたので、明日の上天草に帰るのに、逆潮となるので25日の係留をキャンセルしたいと、申し出るとあっさり了解してくれた。田川君達が来たので、合流した。そして、出島後の横を通り、

繁華街へ行き、「吉宗」で食事をとろうということになった。
この店の事は、長崎育ちの私の妻からも聞いていた。この店は茶碗蒸しと蒸し寿司で有名な店である。私は茶碗蒸しだけでお腹いっぱいになってしまった。田川君達は、アレン隼人君のおみやげを買いに行き、私とN氏は、繁華街に特別に龍馬関連の資料室を見学し、またそこで合流し、眼鏡橋

みて、寺町を通り、

龍馬達が日本最初に立ち上げた商社「亀山社中」を見ることにした。亀山社中までは、約700mの階段上りで、夏の太陽が容赦なく照らし、石段を熱く熱して人体の温度も上がり、確実に熱中症である。しかし、ここで倒れたら、救急車は入ってこられないだろう。事前に大量のポカリを飲んでおいてよかった。



 亀山社中と呼んでいるが、実際に商務をとったのは小曽根の店先の一隅を使わせてもらい、亀山社中の寄宿舎であっただろう。今長崎は、「龍馬伝」ブームで盛り上がっている。しかし、私にとって龍馬は、やはり「竜馬がゆく」である。これは何回も呼んでいる。そして、頭のなかで映像が完成されている。これと「竜馬伝」はやはりちがう。亀山社中を見た後は、シーボルト記念館に行くことにした。電車通りにでて、信号待ちの時にはしゃがんでしまった。田川君の実家はシーボルト記念館へ行く途中である、ということなので、田川君の実家でちょっと一休みすることにした。
 田川君の実家に付くと、ご母堂が出てこられて、挨拶をすると、クーラーの効いた食堂に案内してくださった。クーラーとビールで一息ついて呼吸もやっと平静に戻った。
 田川君の実家を出ると、シーボルト記念館はすぐ近くにあった。
 鳴滝塾跡の

隣にシーボルト記念館があった。そこにはシーボルト関連の資料がたくさんあり、お宝が多数展示されていた。しかし、入場料は100円であった。亀山社中は300円であった。資料の価値ではおそらく逆であろう。しかし、今は竜馬ブームだから、そうなのだろう。

 シーボルト記念館を出ると、田川君は電停まで送ってくれた。私とN氏はアーケード街でおりた。そして、茂木行きのバス停に行った。帰りもバスがすぐにやってきた。茂木に付くと、船に戻り、今日は船上で夕食をとることにし、それから夕食や明日の朝食の総菜や弁当、氷、飲み物を買いに行った。スーパーに氷がなかったのには驚いた。別な店を探してやっと氷を買い求めて船に戻った。涼しい風が吹いていて気持ちがよかった。日が暮れるのを待って、銭湯に行った。
 今日は昨日の反省から、酒を飲まないことはないが、かなり控えた。ギターを取り出して、懐かしのメロディをつまびいたり、おしゃべりをしたりした。その後キャビンに入り「ふーてんの寅」のビデオを見た。N氏は、フォクスルバースが涼しく、星空が見えることを見つけ、そこに今夜は寝ることにした。私は酒を控えたせいか、すぐには眠らず「ふーてんの寅」1本見てしまった。

 この写真は夕焼けではない。朝日である。翌朝6時の約束だったが、5時30分に田川君がやってきた。そこで、舫を解きすぐに出航した。このように早く、出航したのは、今日の満潮が9時前であるからである。引き潮になったら逆潮になってします。口之津の瀬戸は急流なのである。したがって、逆潮になる前に口之津の瀬戸を通過しなければならないからである。
 昨日はよい風があったが、今日は風がない。機走である。まあ夏のクルージングはだいたいこうである。口之津の瀬戸はイルカヲッチングで有名である。私たちも2頭見た。しかし、背びれがなかったのでスナメリだろう。口之津を通過してももやに隠れて湯島が見えない。近づくとぼんやり湯島の島影が見えてきた。成会津には早く着いた。11時には桟橋に着岸した。後かたづけをして12時過ぎには、車で帰路につくことができた。
おかげて楽しいクルージングであった。しかし、夏のクルージングは暑い。