長浜信幸氏のヨットに行く&和田健一郎氏に相談

 昨日(1月6日)は、長浜氏のヨットに出かけました。長浜氏との旧交を温めるためとポケットGPSの実力をたしかめるためです。珍しくJRで出かけました。車ではなくJRでヨットに行くのは初めてです。もっとも大学のヨット部のときには、車はなく毎週国鉄でヨット部合宿所に行っていました。とても懐かしく思いました。
 長浜氏のヨットは以前は私のヨットと同じ桟橋熊本ヨットクラブトップにあったのですが、現在は波多マリーナみすみ海の駅|海の駅にあります。ここは三角駅の一つ手前の波多の浦駅の近くにあり、JRを利用することができるのです。

 長浜氏のヨット和冦に乗り込み出航準備を整えて出航しました。

そして食料を調達するために三角駅前の桟橋に向かいました。

ここには「海のピラミッド」と呼ばれるちょっと変わった建物があります。

この建物は島原とを結ぶフェリーのターミナルとして利用されていたのですが、島原と熊本港を結ぶフェリーが運航されると利用者が減少してついには廃止されてしまいました。このため、現在は閉まっています。近辺も寂しくなってしまった様子です。もったいないと思いました。例えばこの前の海にヨットハーバーを作り、その関連施設として利用するなどすると、もっとにぎわってくると思いました。
 
 それから八代海に出て行きました。朝は寒く霜に覆われていたので、たくさん着込んできたのですが、昼は風もなく暖かく汗ばむくらいでした。

無風なのでのんびりと昼食をとると、帰港しました。
(帰港の様子を携帯のvideoにとったのでここに載せようとしたが、できない。残念誰か教えてください。)


 ポケットGPSの実力は十分に確かめられました。列車の中でもその位置を確実に示してくれました。ヨットでも浮標や海の深さをきちんと示しました。残念ながら、航跡はその機能をoffにしていたため記録されず、ここにも表示できません。
長浜さんからメールが届き、航跡図をいただきました。掲載することが可能になりました。



 長浜氏とヨットに乗るのは久しぶりで、旧交を温めることができ、ポケットGPSの実力も確かめられ、目的を十分に達成でき、楽しくも有意義な一日となりました。

1月7日 
 今日は和田健一郎氏に会いに行きました。氏は熊本県の公立高等学校に勤務されていましたが、退職になり現在は熊本県のボート協会の理事長をされています。そして、退職後セーリングクルーザー流風(ヤマハ30C)で日本一周をされています。それもほとんどをシングルハンド(一人)で、(時々奥様やお嬢様も加わられて)行われています。
 そこで、回航途中の停泊地に関する情報やシングルハンドでのロングクルージングに必要な装備、シングルハンド特有の問題等について、相談するためにお会いしに行ったのです。氏は競艇ボートには、詳しいがヨット歴は短いと聞いていました。しかし、お宅に伺って驚きました。セーリングディンギーを自作なさっていたのです。その写真が飾ってありました。クルーザーも骨組みまでは作ったことがあるそうです。いろいろなことを聞くことができました。先述のこと、エピソード、他の日本一周をしている艇のこと、楽しかったこと、不安になったことなど興味深い話ばかりでした。

 氏のお住まいのところは、熊本市江津湖のほとりです。この江津湖熊本市の観光地水前寺公園の近くで、湧水池で市民のオアシスとなっています。ここはボート競技のメッカでした。現在は竜門ダムができて中心はそちらに移ったようです。しかし、現在も高校や大学の漕艇部の練習場となっています。私(山本憲令)も、ディンギーやカヌーを浮かべて遊んだことがあります。江津湖加勢川に流れ出しています。
 
 私の生まれ育ったところは、加勢川下流熊本市の川尻町です。実家はこの加勢川の土手沿いで加勢川に面しています。そこで、江津湖から実家までをカヌーで下ったのです。子どもの頃はこの加勢川に川船を出して、ハエやウナギなどをつっていました。また、手長エビを潜ってとったりしていました。海まではかなり距離があるのですが、サユリやスズキがあがってきていました。それを釣ってから小学校に登校していました。


 川尻は緑川と加勢川が接合する地点にあります。そこで、緑川・加勢川水系の木材や米の集積地だったのです。つまり「津」といわれる地点です。今も緑川と加勢川とを結ぶロックがあり、水面の高さを調節して船が行き来できるようになっています。子どもの頃は引き潮のときに、下り加勢川から緑川に出て有明海まで行き、潮干狩りをして、満ち潮に乗ってかえってきていました。
 このため、木材加工業や農具の生産が行われていました。現在でも桶屋や鍛冶屋があります。わたしの子どもの頃は、もっと数多くありました。そこで子どもの頃は独楽を注文して作っていました。肥後独楽の遊びは、互いに独楽をぶつけて、相手の独楽を傷つけたり回転を妨害してどちらが長く回るかを競うものです。そこで、できるだけ長く回転し、相手の回転を止める止めたり、破壊してしまうことのできる独楽を工夫するのです。そして木材を加工しているところへ行って、このようなかたちの独楽を作ってくれと注文するのです。また、独楽の芯も鍛冶屋へ行ってこのような形や長さに作ってくれるように注文するのです。今思うとずいぶん贅沢なことだったなあと、思います。


 
 私の先祖はもっと下流の河口に住んでいたようです。そこで網元の一人だったと聞いています。また、毎年洪水などで変わる川の水深を測り、海からあがってくる船のための航路を示す標識を立てる役目を負っていたと聞いています。そしてそのかわり船が通ると、通行料をもらう権利があったようです。このことを知って河川水運について、興味を持ちました。京都に行ったときも、伏見へ行き30石船を見てきました。また伏見には坂本龍馬の定宿だった寺田や月桂冠の酒蔵を見てきました。川尻町にも割に大きい地酒の醸造元があります。おそらく伏見と同じ条件の土地だったのだろうと思います。